【If you want】 どうしても慣れない。。

【If you want】 という言い回し、よく聞きません?洋画でも海外ドラマでも、友達との会話の中でもヨーク出てくる。慣れないんだよな、この言い方。慣れないっていう言い方が正しいのかは分からないけど、無意識のうちに嫌な気分になっちゃってる気がする言葉がこの【If you want】です。

決して相手を蔑む言葉ではなくて、むしろ相手を気遣う言葉として多く使われてるんだけど、どうしても、上から目線に聞こえちゃう。きっと共感してくれる人、多いと思う。

If:もしも、 You:あなたが、 Want:したいならね、 → 「もしあなたがそうしたいならね。」って聞こえてしまう。上から目線というか、いやーな返し方というか。

A:Do you have any plan tomorrow?(明日の夜なにか予定ある?)

B:No. I don’t have any plan.(何もないよ~)

A:So.. we can go to dinner if you want.(じゃあ、よかったらご飯行かない?)

B:Okay, sounds fun.(オッケー、楽しそう。)

頭では分かっていて、理解もできているつもりなんだけど、やっぱり 【If you want】 っていう言葉を日本人の脳みそで瞬時に変換しちゃうと、上から目線で「あなたがもしわたしとご飯に行きたいならね。」の前に、『行ってあげてもいいよ』がうっすら見えちゃう感じ。

これは相手を蔑んだり上から目線の表現ではなくて、「もしよかったら、」って相手を敬って気遣っている言葉。だから、こういう風に会話の端々で 【If you want】 が使われると、変なプライドが邪魔して、『Not really. You ask me first, so I thought you want to ~ 』 ってひねくれた言い方をしたくなっちゃう。絶対口にはしないけど。

こんな風に英語についてもこれから書いて行ってみたいと思います。

日本人とアメリカ人の感覚の違い(わたし的意見)

今回は、海外の友達と接していて感じる日本人との違いを思いつく限り書いてみようと思います。当然個人差はあるし、価値観によっても変わるから参考になるかはわからないけど、わたしの感じる部分を。。

私が一番接する機会が多かったのはアメリカ人。アメリカ人って個性を重んじる。いつもそう感じます。それに比べて、日本人は周りからどう見られるか、どう見られているかを物凄く気にして、周りと違うことをせず、周りに溶け込むことを大切にしているように感じます。

そんなことないって言う人もいるかもしれないけれど、そう言っている人ももしかしたらきっと無意識のうちに世間体や他者の目を気にしちゃってることってあると思います。もちろんそれはわたし自身にも言えること。

不倫だ浮気だ離婚だデキちゃった婚だなんだって、そういうことが絡んでくると、みんな当事者でもないくせに人を評価や批判をしたがるし、あれこれ口を出したがる。アメリカ人って、そういうのがないように感じる。

日本人だったら親が離婚していたり異母兄弟がいたりしたら、それだけで自分のことを無意識に卑下してしまうし他者にそんなこと話したくないって思うし。そう思うのは、そもそもそれを聞いた人が良い顔しなかったり、戸惑って変に気を遣ったりするんだろうなっていうのを最初から分かっているからであって。

自分の息子が若くして結婚前に彼女を妊娠させてしまったら、まず「責任はどうとるんだ!?」って怒り狂って相手の両親に頭を下げに行ったり(これはさすがに昭和過ぎかな?今はもうそんなことない?)

「あなたのご主人浮気してるよ。」ってご近所さんから耳にしたら、世間体を気にして外を歩くのがしんどくなったり、 ゲイ=普通じゃない って捉えて、静的マイノリティであることを隠し通して生きていこうとして思い悩んでしまったり、周りに本当の自分をカミングアウトできずに苦しい思いをしたり。今は前よりはオープンな世の中になってきてはいるけれど、まだまだ全てがそうではなくて。

相手を白い目で見たり見られたり、 “健全さ” が当たり前に大好きで、それをとても重んじる日本の国民性。健全である事ってそんなに大事なことなのかな?疑問。

何を以て健全とするかはそれもまた国やその人によって違うんだろうけど、日本でいう “健全” って要するにそういうことでしょう?相手に変に気を遣いながら、心の中ではマイナスとして捉えちゃう。 “気を遣う” っていうのは良くも悪くも日本人ならではの国民性なんですよね。うーん。。。個人的にはあまり好きじゃない。。時と場合によっては気を遣うことって必要ではあるのだけれど。

アメリカの人は “対 個人” として相手を見る印象で、「両親最高に仲悪くてね、異母兄弟がいるし。ママは不倫してるよ。パパは浮気してるよ。それにお兄ちゃんがゲイでね、わたしは32歳年上の人と最近付き合い始めたんだ。」 みたいにオープンだし、

それを受けた方も、「そうなんだ~!わたしはあなたが好き。それだけよ、大好き。だからわたしはあなたと一緒にいる。32歳も年上の人?すごい!どんな素敵な人なの?」みないな。

世間体とか偏見とかないし、 “わたし” が “あなた” をどう思うか。どう考えるか。それには家族とか育った環境とかその人を取り巻く他の要素はあんまり加味されていなくて、重要なのは “わたし” にとって “あなた” がどういう存在であるか。まずその結果があってから、その他の事に視線が向く。もちろん個人差はあると思うけど、わたしが接してきた友達はみんなそういう視点で相手を見ていました。

あとはアメリカは性にもとてもオープン。日本はオープンではないですよね、むしろセクシュアルな話題に対して消極的。

ついこの間食事に行ったときに、隣の席の合コンらしき集まりの中の女性陣が男性陣に対して、「どんな女性が好み?」って質問をしていて、その男性陣のうちの一人が「ごめんね、引くと思うんだけど、顔とかよりも体なんだよね、俺。」って答えていて、「ありえなーい!」「無理~」と女性陣は拒否の姿勢。まぁ、顔より身体に目が行くことはともかく、なんで “ごめんね” なの?そして 「無理~」??好きなんだもん。好きでいいじゃない?それがタイプなんだもの

そういう行為に対する話も、みんな外ではあんまりしないじゃない? “下ネタ” としてセンスなく下世話な感じで話題にはするけど、それに対してのマジな会話って表であんまりしない。

でも、生きていくうえで重要なことだし、みんな好きな人とはしたいって思うよね?誰だって。とっても素敵なコミュニケーションだし、誰だっていっぱいしたいし、したいと思ってもらいたいし。そういう話が日常的だって別にいいじゃない。全然素敵なことだと思うけど、世間はそうではないみたい。

長くなってきちゃったので、いったん区切りまーす。

わたしが宗教に関心を持った理由

イギリスに留学していた時に出逢ったサウジアラビア人の男の子との出逢いから【宗教】について考えるようになった~~~

2,3日前にたまたま知り合いとそんなような話をしていて自分が実際にその時に感じた想いとか考えとかを忘れちゃわないようにここに書き留めておきたいな、と思いました。もし共感してくれる人がいたり面白いって思ってくれる人がいたら嬉しいです。

まず。わたしは鉛筆は右、それ以外は全部左利き。

わたしが宗教に関して考えるようになった理由は結論から言うと、、わたしが左利きだったこと!

イギリスにいたとき、サウジの友達含め、モスリン(イスラム教徒)の友達13人くらいとみんなでご飯を食べに行く機会がありました。その食事の席で、わたしが左手でフォークを持とうとした瞬間に全員が物凄い目でわたしを見たのです!

ロンドンにいたとき、学校では毎日サウジのその彼と顔を合わせて授業を受けていたわけで、とってもロマンティックな日常を過ごしました。(これについてはまた国際恋愛について書かせてください。。♪)

サウジから来ている彼らはラマダン(断食月)中だったのでランチやティーブレイクの時間は食事のことを考えなくていいようにひたすらフットボールに汗を流していました。

だからその期間が終わるまでの間わたしは彼らと食事をしたことがなかったのです。その期間が終わってからサウジのその彼がサウジの伝統料理が食べられるお店に連れて行ってくれることになり、彼と出身が近い友達みんなと一緒にそのお店に連れて行ってもらいました。

食べに行ったのはケプサという伝統料理。これを手で食べるのが正しい食べ方みたい。

日本でいう横浜中華街みたいな感じでその地域一帯が中東街みたいに想像以上に現地色が強い場所でした。誰もがみんなアラビックで喋っているから何言ってるのかも全然わからなくて刺激しかない初めての空間でした。

その空間に日本人はわたしひとり。他は全員アラビアン!

彼がわたしの分のオーダーもしてくれて運んできてくれたはいいけど、そのあとみんなで『じゃあ、食べよう!』ってなって、わたしが左手でフォークを持った瞬間そこにいたみんなが一斉に、本当に文字通り一斉にわたしをギラッと見たのです。

確かに彼らの前で左利きを発揮することは今までなかったしペンを持つのは右手だから授業中に発見されることもなかった。

無知ながらに宗教の事も【左手は不浄なもの】だってことはなんとなく理解していたつもりだったけど、あまりにもみんあの視線が強すぎてわたしは固まったまましばらく動けませんでした。

彼らも悪気があったわけではなく反射的に起きたことであるからこそあの瞬間は本当に心底気まずかった。。

でもやっぱりイスラム教徒ならではの “施しの精神” というか優しさというか。。(全員が全員というわけではなくあくまでその人の性格とか個性っていうのが根底にはあるけれど)

反射的に左手を使ってしまったわたしを見て彼らもまた反射的にわたしの行動から目を離せなくなってしまったわけだけど、すぐに切り替えてくれたというか

『僕らの宗教ではびっくりしちゃうことだったから不思議な目で見ちゃってごめんね。でも Coco はモスリン(イスラム教徒)ではないしCoco の食べやすい方法でいいんだよ。嫌な思いをさせていたら本当にごめんね。』

って言葉をかけてくれてその言葉に逆に申し訳なくなっちゃってわたしは必死に右手で食べたのを鮮明に覚えています。かなり衝撃的な出来事だったからその時は結構焦ってしまっていて、気づいたら帰りのバスの中だったんだけどあとあと思い出しても後にも先にもこんな変な羞恥心でいっぱいになった経験はきっとない。。きっとない。。

それがきっかけとなって、『宗教ってなんなんだ!考えるとか計算するとかそんなのの以前に無意識の中にある絶対的なものというか。。とにかくなんなんだ!宗教ってなんなんだ!』って思うようになりました。

全員が一斉にわたしを見つめた背景には絶対的な宗教の存在があるわけで、当たり前に、日常的に、心から神を信じているからこその行動の一致なわけでいろいろたくさん考えました。

日本人は仏教と言いつつ形上のものが多いと思うし、ほぼ無宗教と言ってもいいように感じる。

それからはイスラム教に限らずいろんな宗教に関心が出てきてちょっとずつ調べたり話を聞いたりするようになりました。その中で左手について面白い記事がありました。

●キリスト教では。。。《悪魔は左手に宿り、病気は左手からやってくる》と言われており、昔は 左利き=異端 と考えられていたんだって。だからキリスト教圏内で描かれる悪魔はほとんど左利きだそう。

左利きの人は悪魔と呼ばれたり、女性だったら魔女狩りの対象になっていたんだって。聖書の中にも《左手に告げることなかれ》という言葉があるみたいで、それは聖なる右手でするべきことを偽善の左手に教えるべきでないって意味なんだそう。

今はそんなことなく、おとぎ話化しているけどやっぱり左手は悪いイメージ。

●インドに多いヒンズー教では。。。一般的に食事は右手でされている。そして左手では排泄後の処理をする。これはモスリンも同じ。上に書いたサウジの彼らといったレストランのお手洗いにも、お尻を洗う用のシャワーのノズルがあって、それは左手側にあった。

《右手は神の祝福を受けた聖なる手とされている》という言葉があって左手で物を渡したり握手をすることはタブー。今でも結構そういう文化が健在しているみたい。

●そして、イスラム教。。。!イスラム圏ではなんと、窃盗などの罪を犯すとその刑罰として右手を切り落とす、というものがあるそう。別に昔にだけ起こっていたことでもないんだって。

その意味は、単なる罪滅ぼしというだけでなく、一生不浄な左手の身を使って生きることになるっていうこの上なく、非常に非常に不名誉なことなんだって。

素晴らしく心に突き刺さるこの感じ。。

自分が左手と右手を両方使って生きていることについて違和感を感じることなんてなかったけど、このことがきっかけとなって、いろんな宗教観をいろんな目線から、視点を変えて見ることができました。

日本に住んでいて日本人の感覚だけで物事を見ていたら理解に悩むことってたくさんありますよね。世界って広いな、世界って思考と命で溢れてるな、、まだまだ想うことはたくさんありますが、今回はここまで❁

長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださってありがとうございました。

さいしょ。

始めまして。。社会人8年目の頭の中をつらつら。。 

小さい時から海外文化が身近な環境で育ちました。その影響もあり大学の頃に少しの期間イギリスへ。海外旅行も好きでいろいろな場所に行ってきました。出逢ってきた人々や、彼らとの出会いから感じたこと、海外文化や英語について、今まで考えもしなかった宗教のことなど、、、

こんな世界もあるんだなって自分が驚いたことを書き留めておきたくてブログを開設してみました。

初心者過ぎて使い方をマスターするまでにはまだまだかかりそうですが、まずは記事を書くことから!徐々にスキルアップしていきたい―!

ちょっとでも「白いっ」って思っていただければ嬉しいです❁